2016年1月13日水曜日

「ドイツの教育を考える:歴史・政治教育の視点から」報告

昨年12月8日に実施された黒田先生、大重先生によるトークセッションでは、主催者側にとっても得るところが多かったように思います。ドイツ語の授業で、日本人特有のジェスチャーで分らないといった風でいると、逆にドイツ人の教員からそれでは分らないと指摘されます。むこうでは「言葉」に重きを置くということが、今回の対談で実感として納得できました。そんなわけで、内容とはあまり関係ないドイツ語学習にも役立ってしまったのでした。

 対談をすべて載せると読むほうも大変なので(そういう意味では、本格的に動画としてアップロードする方法も次回以降あってもいいのかもしれません)、一部編集してお送りします。また質問部分も長かったので、要約しています。司会は渡辺が担当しました。


1. (18歳選挙に関して)主権者教育が叫ばれているが、日本の政治教育に対してどのように考えるか。

黒田「政治教育とは限らないんですけど、ドイツの学校の授業を観てて一番感じるのは、対立があるのは当り前ということなんです。日本では対立が無いようにとか、いじめはあっちゃいけないとか、そういう理想論から入っていくんですけど、ドイツでは対立するのは当り前ということで、そういった場合にどうやったら妥協点を見出せるか、あるいは自分の考えを相手に伝えるかという点に重点が置かれているところがちがうなと思います」

 「教科書などではネオナチのことも載っています。日本では変な人たちとか、近づかないほうがいいとかいって関わらないようにするか避けると思いますが、ドイツの教科書には、その人たちの主張や行動について、1ページにわたって出ているんです。この人たちはどうしてこういうことを言っているのか、ネオナチの論理をよく観ていこうと。たとえば日本の歴史認識で言えば、日本の戦争は悪くなかったという人たちの、どういうところがおかしいのか論理的に間違っているのか、あるいは本当にそうなのか。そういったところを採り上げないで同じ意見の人たちで固まっていると、対立点を分析する力がつかないんです。そうすると、全く別の考え方にふれた時に自分で判断することができないので簡単に影響されてしまいがちです」

大重「日本語で政治教育というと、何か特定の方向性を押し付けるような、そういったニュアンスがあると思うんですね。ドイツ語でpolitische Bildungというと、もっとニュートラルな感じで主権者教育、あるいは民主主義教育といったニュアンスで受け止められると思います。政治というものが日本の社会では特別なものになっていて、そういった話をしていると周りから距離を置かれるといったことがあるので、何らかの形で乗り越えていって変えないといけない。政治が特別だという区切りがされている現状では、主権者教育、民主主義教育という風に言うことが妥当かなと思います」

 「自分のことは自分で決める、というのが民主主義の一番重要なところだと思うんです。(大学で言えば)2人、3人いてサークルをつくる。そこで1人が「これが正しいから、お前たちがなんと言おうとこれをやるんだ」と言うのではなく、みんなで話し合って、それぞれの意見を話し合って決めていく。これが民主主義の土台にあると思うんですね。そういった、皆で決めていくという考え方が土台にあって、それをなしに、いきなり政治の問題について考えましょう、自分の意見を言いましょうといっても、なかなかうまくいかないんじゃないでしょうか。自分の大学ではこうなっているけど、これは変えたいとか、いろんな意見を出し合って身近なところから話し合って討論していく。それが土台にあって国のあり方っていうのがあると思います」


これに引き続き、大重先生は本学で変えたいことを挙げられました。これは教員と学生がともに行動を起こすいいきっかけになると思うのですが、大学の自由な掲示板についてです。先生の話では、現在、掲示板に貼る紙は学友会の公認スタンプが押されていないといけません。大学の外の人による勧誘などがあるため、一定の制約は必要になるというわけです。またここで、先生が現在強く思っていることを述べていただきました。

大重「大学の構成員が自分の責任で発言できる機会とか場所を作ることが大切だなと、個人的には強く思っています。それがないと言論の自由とか、表現の自由とか、意見を交換するときの条件が実際に保証されていない、ということを感じますね」

 黒田先生はまた、93年にドイツ滞在中、投票率が低下したときの話に触れられました。そのときの対策として、その地域では選挙立会人に学生のボランティアを起用するということがありました。選挙を円滑に進めていくための手伝いをすることによって、政治的な意識を高めようとしたのです。


2. 学費が高く、奨学金も実質的に給付型しかないといっていいくらいな日本の状況。先進国の中では不自然に映るといってもいい。これに対し、日本の意識改革はどのように展開していくか。

大重「資源がない国においては人が重要な宝になるので、そこに対しては国全体、社会全体で育てていって、投資という言葉を使うなら投資をしていく。高い技術を育てて、将来社会に還元していく、そうしていくことによって日本の経済を長期的に支えていくことが大切だと思います。おそらくヨーロッパの多くの国ではそういったことで、教育は大学も含めて社会全体で担うものなんだ、という意識なんだと思いますね。」

 「対極にあるのは、教育というのは個人が自分のスキルを高めることによって、高い学歴、技術を得ていい仕事を得る。だから高い学費を払うのは当然なんじゃないか。これは、受益者である人はたくさん資格を取ったりする、それに対してサービスを受ける。そのサービスは当然自分で払うべきだ、という発想が対極にあるわけですね。これが強いのは、日本とかアメリカだと思います」
 (今後の展開に関して)「1人で暮らしていくといったときに、学費に対して税金が補填していいのかどうか。それを了解するか、それともそれはだめだと考えるかどうか。財政が下り坂で無償化というのはむずかしいけれど、貧困の連鎖がある中で大学に行けないと、またワーキングプアになる。あるいはフリーターになり、それは生活保護などになって負担になっていく。教育に対しても社会的な負担を強化していくべきだ、そういった傾向になれば変わっていくかもしれません」

黒田「ヴァイマール共和国の憲法論争の際、社会民主党(SPD)が社会的流動性ということを主張しました。そのために教育を変えるといって、小学校の4年間だけは、どこの家庭の子どもも一緒に勉強できるようになったんですね。戦後の日本は、理想とは言わないまでもドイツにとっては一つのモデルケースとみなされた時期もあって、社会民主党は、日本のようにみんなが高校に行って、大学に行ける社会のほうがいいんじゃないかというので、文科大臣が視察に来たんです。そういう意味で、戦後の日本では社会的流動性のあった時期が続いていたと思うんですね」

 「貧しい家だから大学に行けないというよりは、勉強を一生懸命やっていれば国立大学に入って、という道もあったんですけど。それが途中から国立も授業料が高くなって。また難関校といわれる大学に入るための親の投資によって子どもが合格する大学も固定化されて、社会的流動性がなくなりつつあります。どういう制度がいいとは一概には言えないんですけど、このままいくとかなり固定化されてしまう。そうなってしまうと、他の社会層に移りたくても、不可能になる。そういう点で、奨学金じゃなくてもいいんですけど、流動性を保つような方策を何か考えないとこわいな、という気がしますね」



3. 大重先生が『獨協大学ドイツ学研究』に書かれた「ドイツにおける非典型就業の制度的枠組みと実態」を読むと、有期雇用では熟練資格のある3分の1の就業者にとっては架橋機能をもっているが、それ以外の3分の2の就業者は緩衝機能として利用されており、安定雇用への移行が困難であるとされる、と述べられている。黒田先生が同誌に書かれた「ドイツにおける教育改革をめぐる論議と現状」では、親の経済的な格差とならんで文化的資本による格差、つまり家庭環境によって子どもたちの学校での成績や進路が大きく左右されている、と分析されている。規制緩和、もしくは非典型就業はこれからのドイツの教育にどのような影響を与えるか。

 まず最初に、黒田先生はドイツでは社会的な格差の問題が意識されていると述べられました。ただし州によって対応は異なり、今は流動的な時期にあるとのことです。親たちは、「自分はGymnasiumに行かなかったけれど、自分の子どもはGymnasiumに行かせてやりたい、またHauptschuleではなく、せめてRealschuleには行かせたい」と考えますし、HauptschuleとRealschuleの位置づけについてもあまり差がなくなってきている。その結果、現在は三分岐制から二分岐制にしようという傾向があり、また、日本の小学校にあたるGrundschuleを従来の4年制から6年制へ延長する傾向もみられるようです。

黒田「このようにして社会的格差をなくす取り組みはされているものの、住民投票でひっくり返ってしまうケースもあるんです。ハンブルクなどでは、理念の点では一致していても、自分の子があまりできない子と一緒になるのは嫌だということで、反対をする」

 「日本では、一家そろって夕食を取る機会も少なく、またその時に安保法制など、政治の話を活発にするということはあまりないと思いますが、ドイツでは高学歴の家庭では、家族そろって夕食時などに政治問題などをいろいろ話し合います。そういう家庭の子どもと、お笑い番組しか観ないような家庭で育った子どもでは語彙もちがうし、議論の仕方も違ってきます。家に本も置いてない家庭もたくさんありますし、親から受け継ぐ文化的な刺激も違ってきます。ドイツではそういったことを文化的資本による社会的格差といっています。そこで最近は、全日制にして、午後も授業を行い、学校にいる時間を長くして、子どもたちの家庭環境から生じる格差をなくしていこうという意識はありますね」

 続いて大重先生はまず、昔の労働者の可能性を指摘されました。たとえばJohannes Rau(1931-2006)は労働組合で職業訓練を受け、そしてSPDの政治家になり、大統領にまで上り詰めました。労働者とエリート、二つの対立するピラミッドはあったけれども、労働者は誇りをもって生活できた。そのあたりが段々と崩れていって、多くの人がエリートのほうに移ってきているといいます。卒業後、労働組合に入らず、個々人が自分一人でやっていける、という働き方を選択するようになってきているようです。

大重「より平等になっているかというと、そうとも言えなくて、ドイツ人の中でも階層分化していって、豊かな人たちと貧しい人たち、日本と同じように分極化が見られている。移民の人でもキャリア形成ををしている人はいます。また学費は無料だったりするので、所得とそれほど関係なく(学校に)行けるという面もあります。しかし文化的資本のちがいによって、克服する試みはあるものの、力の差が出てきている。たとえば移民の家庭だと母親がドイツ語を教え、それをDiktatするといったことができないので、力の差が出てくるわけです。それを少しずつ平等にして、夕方まで学校にいて、というあり方にしているんですが、それでも学歴差のところで出てきて、大学進学の際に移民の人たちは低くなっている。そして社会階層、就職のところで不利になってくる」

 「雇用の規制緩和、非正規の拡大がドイツでも進んでいるので、その結果もあって分極化しています。従来とはちがった形で、モザイク的な形で社会の格差が広がっている印象があります」


質疑応答



学生記者からの質問に続き、質疑応答の時間を設けました。ここではインターンシップ体験報告にも名を連ねる芝田晃さん、石崎千帆さんから次のような論点が出されました。

芝田さん、石崎さんの順で質疑応答は進行します。

(黒田先生に対して)単純に人口と大学数を比較すると、ドイツは人口が約8200万に対し、大学は350校。日本は約1億2500万に対して大学は800近くある。日本では新規に大学が設置されて乱立状態にあるが、設置基準のハードルを上げるべきといったことを考えることは。

黒田「田中真紀子がかつて言ったことみたいですね。(笑)。日本は資源がないのだから、人材育成という観点から考えると、ある程度の教育はできるだけ多くの人に機会を与えたほうがいいですね。そのように考えると、規制して極々一部の人たちにしぼったエリート教育をするということは逆効果になります。昔のような、知的労働職、アカデミックな研究をする人だけで動かしていけばいいということならば、別でしょうが」

 「今はどんどん大学をつくってますけど、実学志向で、こういうことをやったらこういう資格をとれて何になれますというのがないと学生が不安に感じるようです。ほとんどの大学が専門学校化していく傾向があるので、大学の理念をどういう風に考えるかということと密接に関わってきますね」


石崎さんから出された論点は、日独政治家の相違点に関連したものでした。

ドイツでは労働者でも(アカデミックな環境にいなかった人でも)大統領になれる。日本と比較して、そういったことを受け入れてくれるということか。

黒田「ドイツでは卒業までにいろいろな大学で勉強するのが普通なので、何々大学卒というのは(候補者の名前が出るときに)つかない。政治家は、討論してどれだけ自分の考えをアピールできるか、説得力があるかが重要視されます。政治討論はテレビでも毎日のようにやっていて、日本ではあまり観る人はいませんけど、ドイツではよく観られてますね」

 「労働組合にいたからといって、しゃべらないで上にあがってきたわけではないし、やはり労働組合の中でどれだけお互いに政策を積極的に議論できるかを周りが見ているので、それができない人は上がってこられないんですね。アメリカもそうですけど、ドイツのメディアは、日本だと失礼じゃないかと思うくらいにガンガン追及してきます。けれど、それに対して怒鳴ったりしてたらそれでもうお終いです。そうじゃなくて、そういう意見に対してどれだけちゃんと答えられるかというのをみんな見てる。そこが決定的にちがうんですね。鍛えられてる」

大重「ドイツの政治家は本当に自分で語れますね。日本の政治家は、たとえば大臣にしても役所の人のメモとかがないと答弁できない人が多いですけど、ドイツの場合、自分で専門の知識を持っていて、専門家だからその大臣になっている。だから批判されても自分で論理的に筋道立てて答える。その力が政治家としての一番の土台になっていると思います」

 (アメリカで日本政府主催の記者会見が開かれたときのことに触れて)「難民の問題について日本はどう考えますか、という質問がアメリカ人からあったんです。それに対し安倍首相は、難民の受け入れ前にやらなくちゃいけないことがある、と言っていました。難民の問題というのは人道的な問題で、安倍さんの答えは雇用をどうするか、少子高齢化をどうするか。そこで難民については、飽くまで労働力としてしか考えていないということが露呈してしまったんですけれども、そのあとにオチがあって、あの質問は事前に寄せられていなかった。あらかじめ記者に対してはする質問を提示するように言ってあったのに、あれはルール違反だと。でも記者会見でジャーナリストが自由に質問して、それに対して的確に答えられるっていうのは、それも国のリーダーですから、政治家としてやっぱりできないとダメだと思うんです」

 質疑応答で、政治家は言葉で勝負するものだということが改めて理解できました。これからは教育も論述式など、言葉を重視するものに変わっていくようですから、日本の政治文化もある意味では先進国に追いついていくことでしょう。その際、日本のメディアはどう反応するでしょうか?ドイツの風刺番組は、そういった政治家でさえも笑いものにする鋭さをもっています。教育は力である、そう実感できる社会に生きてみたいものです。


記事執筆:Yuki Watanabe(ドイツ語学科3年)
写真撮影:川原宏友(大学院博士前期課程2年)

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