2016年7月15日金曜日

【学生記事】オーストリアの国民的英雄プリンツ・オイゲン―レジェンド・オブ・フランス絶対倒すマン


ウィーンの名所ベルヴェデーレ宮殿は、皆様も耳にしたことがおありでしょう。現在では、クリムトやシーレなどウィーン世紀末の画家の作品などを所蔵する美術館となっているこの宮殿の主を、皆様はご存知でしょうか?


〈グスタフ・クリムト「接吻」〉
 彼こそ、今回ご紹介するプリンツ・オイゲン(画像下)。17世紀に生まれ、類まれな天才軍人として活躍した彼は、ナポレオンをして、古今東西の名将7人のうち1人に数えられました。そして今日なおオーストリアの国民的英雄として敬愛されており、ウィーンの王宮には彼の銅像が立っています。




今回の記事では、そんな彼の生涯について紐解いていきたいと思います。
 けれどその前にまず、オイゲンが生まれた時代のオーストリア情勢についてお話しさせていただきましょう。
 時は17世紀半ば過ぎ。この時代、オーストリアは、1648年に終結した三十年戦争により荒廃し、大きく疲弊していました。ここで登場するのが、オスマン帝国。彼らはこれまで、ヨーロッパへ攻め入り、版図を西側へ拡大する機会を虎視眈々とうかがっていました。そして、オーストリアが弱体化している今がまさに好機とばかりに、1683年オーストリアに侵入し、ウィーンに向かって進軍します。第二次ウィーン包囲の始まりです。オーストリア、ピンチ。
 一方その頃、フランスでは、ある一人の青年がフランス国王の元を訪れる途にありました。この青年こそが、今回の主役プリンツ・オイゲンです。フランスの貴族、サヴォイア=ソワソン家の五男として1663年にパリに生まれました。オイゲンは、五男という生まれの上に小柄だったこともあり、聖職者になるよう周囲から勧められていました。しかし彼自身は、少年時代に読んだアレクサンダー大王の伝記に感銘を受けて以来、軍人として身を立てることを強く望んでいました。
 そして長じたのちフランス王ルイ14世に軍人として志願をします。しかし、このルイ14世という男、人の見た目を非常に重視する人物で、青白い顔をした小柄なオイゲンの申し出を撥ねつけてしまいます。
 しかし、これこそがフランスの大きな、取り返しのつかない失敗だったのです。
 ルイ14世に断られたオイゲンは失意の中、「もう二度とフランスには戻るまい」と誓い、今度はなんとフランスの宿敵オーストリアへと向かいます。折しもウィーン包囲という危機のただ中にあったこともあり、当時の神聖ローマ帝国皇帝レオポルト1世は、彼を自らの軍に加え入れます。そして、夢だった軍人になるが早いが、オイゲンはめきめきと頭角を現し、オスマン帝国軍を次々と撃破していくのです。中でも特筆すべきは、彼が指揮した1697年のゼンタの戦いです。この戦いは、もともとオーストリア軍3万に対し、オスマン帝国軍8万というオーストリア不利の状況で始まりました。しかし彼の指揮により最終的に、オーストリア軍の死者429人、オスマン側の死者3万人という圧倒的勝利に幕を閉じます。この敗北は、オスマン帝国軍に決定的なダメージを与え、オスマン凋落のきっかけとなります。それに対し、イスラム勢力からオーストリアを救ったオイゲンは、一躍キリスト教世界の英雄の地位に踊り出ました。この時オイゲン、弱冠34歳。すごいよオイゲン!!
 それからも、オーストリアを襲う幾多の危機を、オイゲンはその豪腕でもって打ち払います。次なる活躍の場となったのは、スペイン国王の座を巡るオーストリアとフランスの争い、スペイン継承戦争。オーストリア軍であるオイゲンは、皮肉にも祖国フランスと争うこととなったのです。けれど、彼は容赦しませんでした。まず、指揮官として派遣されたイタリアで、フランス軍と対戦、次いで南独においてフランス軍を打ち負かし、ネーデルラントでも勝利を得るなど連戦連勝を重ねていきます。オイゲンの天才的な指揮能力を前に、フランス側には「あいつらには悪魔がついているに違いない」と言う者さえいた程だったそうですよ。この時、若き日のオイゲンを突っぱねたルイ14世は未だ存命。彼は、オイゲンの活躍に何を思ったのでしょうか()
 もっとも、スペイン継承戦争の結末自体は、同盟を組んでいたイギリス、オランダの離脱や皇帝の崩御などの不運が重なったためにオーストリア側の敗戦に終わってしまいます。しかし、オイゲンの功績により、ネーデルラント、イタリアの一部はオーストリアが勝ち取ることが出来ました。彼なしでは、これらの獲得はありえなかったでしょう。
 さて、数々の軍功により、オイゲンはオーストリアから莫大な褒賞金を得、ヨーロッパでも指折りの富豪に上り詰めます。そして、またこれこそオイゲンが国民的英雄と敬愛される所以、彼は資産を贅沢のために浪費せず、芸術品や貴重書などを収集するために使います。当時、貴族の社会的な役割は、芸術家の支援を通じての文化振興、価値ある美術品や書物を収集し、後世に伝えることとされていました。彼は軍事面だけではなく、文化面でもオーストリアに多大な貢献を果たしたのです。前述のベルヴェデーレ宮殿は彼が後世に遺した遺産の中でも、もっとも重要なものでしょう。この華やかな宮殿は、オイゲンの夏の離宮として建てられたバロック様式の建築で、ウィーンの観光スポットとして人々の目を楽しませています。オイゲンはもともとフランス貴族、幼い頃からベルサイユ宮殿に出入りし、一流の芸術品に囲まれて美術に対する審美眼を養ってきました。そのため、彼のコレクションは非常に洗練されたものが揃っています。その他にも、オイゲンは各国から珍しい動植物を集め、宮殿で飼育していました。
 1736年、オイゲンは自邸で友人らを招いて食事会を開き、その夜、72歳の生涯を閉じました。ちょうど彼が亡くなった時、彼の大切にしていたライオンが庭で数回吠え声を上げたと言われています。
 軍人としてだけではなく、芸術の保護者としてオーストリアに生涯尽くしたオーストリアの英雄プリンツ・オイゲン。その生き様から、「プリンツ・オイゲン 高貴な騎士」という詩がホフマンスタールにより記されました。

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