2018年1月24日水曜日

【学生記事】フランツ・カフカ

 いよいよ最後の記事となりました。学生記者のヨシタカです。

 フランツ・カフカ (Franz Kafka, 1883-1924)

 さて最終回といたしまして、プラハ出身のドイツ語作家であるフランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883-1924)を紹介したいと思います。ドイツ語の小説でも非常に有名な『変身』(Die Verwandlung)は彼の代表作でもあり日本語訳も数種類出ています。朝目が覚めたら主人公が虫になっていたというストーリー、皆さんも一度は読んだことがあるのではないでしょうか。


 さて、カフカの人生についてざっと書いてみます。フランツ・カフカは188363日、チェコのプラハでユダヤ人商人のヘルマン・カフカとその妻ユーリエの間に長男として生まれました。フランツ・カフカの生まれたカフカ家は父ヘルマンが小間物商人として成功したため、わりと裕福な家庭であったようです。カフカは父ヘルマンの意向で、当時プラハでは特権階級の言葉であったドイツ語を学ぶためプラハ市内のドイツ語の学校(ギムナジウム)に通うことになりました。1901年このギムナジウムを卒業したカフカは、その後プラハ大学で法律学を専攻し、ここで後の友人であるマックス・ブロートと知り合います。大学卒業後の1908年にはプラハの労働者傷害保険会社に就職し、働く傍らで執筆活動に打ち込みました。1917年に肺結核を発症、最初の喀血を経験してからはサナトリウムでの長期療養をたびたび挟むようになり、1922年には勤務ができないほど病状が悪化してしまいます。カフカはこの療養期にも数々の作品を書き残しています。そして41歳の誕生日を一か月後に控えた192453日、カフカは肺結核によりウィーン郊外のサナトリウムでその短い生涯に幕を下ろしました。遺稿として残された彼の大量の作品は友人マックス・ブロートが整理し、出版しました。生前は作家としてはほぼ無名であったカフカですが、のちに評価され今の名声が築かれるに至りました。

 ちなみにカフカには三人の妹がいましたが、三人とも後のナチスによるホロコーストの犠牲者となっています。

 フランツ・カフカの代表作としては『変身』以外にも『アメリカ』(Amerika)、『審判』(Der Prozeß)、『城』(Das Schloss)などがあります。たった40年で生涯を終えたカフカの作品は残念ながらあまり多くはありませんが、いずれも有名な文学作品として現在でも知られています。またいくつかの作品では後に映像化もされています。



ヘルマン・カフカHermann Kafka, 1852-1931

 さてここで今回特にフォーカスを当てたいのは、カフカが肺結核のためサナトリウムで療養していた際に書かれた『父親への手紙』(Brief an den Vater, 1919)です。これは一言でいうとカフカが父親のヘルマンに宛てて書いた個人的な手紙なのですが、なんとこれは手書きで100ページ以上にも渡る分量がありました。この手紙はカフカによる自叙伝的な一面もあり、彼の人生を知る上では興味深いものです。日本ではあまり有名なものではありませんが、ドイツでは本としても出版されています。
 カフカがこの手紙を書いたきっかけにはまず彼の婚約にこの父ヘルマンが猛反対したため二人の仲が険悪となっていたことがあります。しかしそれ以前からカフカはこの父親と軋轢があったようで、それを手紙に記して清算してしまいたいという意図がありました。
 またこの手紙は「なぜ私(=カフカ)があなた(=父親)に恐怖を抱いているか」という問いかけで始まっています。カフカの父親ヘルマンは商売に成功して一代で裕福な家庭を築き上げた努力家であった一方で、厳しい教育をカフカに施したことでも知られています。また頑固で怒りっぽかったために、カフカとはたびたび衝突を繰り返していました。



 もちろんカフカはただ単に父親が怖いや嫌いといった内容を記したわけではありません。自分の幼少期の父親との思い出を引用しつつ、予想される反論に答えながら「自分たち二人の不和の根底は何か」というテーマに彼なりの省察を加えています。他にも「小さい頃の教育が自分にいかに影響したか」、といった視点からも父親との関係を多角的に捉えようとしています。カフカはこの手紙で今までの父親との不仲に決着をつけ克服しようとしようとしていたのです。

 そんな『父親への手紙』ですが、せっかくなのでいくつかそこから文章を引用したいと思います。カフカを違う方向からとらえる鍵になるのではないかと思います。



Ich wäre glücklich gewesen, dich als Freund, als Chef, als Onkel, als Großvater, ja selbst (wenn auch schon zögernder) als Schwiegervater zu haben. Nur eben als Vater warst du zu stark für mich, besonders da meine Brüder klein starben, die Schwester erst lange nachher kamen, ich also den ersten Stoß ganz allein aushalten musste, dazu war ich viel zu schwach.
 もしあなたを友達や上司、おじや祖父、もしくは(同じように怒りっぽくとも)義理の父として持つことができたら、私は幸せだったでしょう。まさに父親としてのあなたはあまりに強すぎました。それも弟たちが早くに亡くなり、また妹たちも遅くに生まれたこともあり、最初の一撃をたった一人で受け止めないといけなかった私は、あまりにも貧弱だったのです。
 (翻訳は筆者による。以下も同じ。)

 この一撃とは、カフカの父親の厳しく短気な性格によって受けた風当たりのことです。ここで言われている弟たちというのは次男のゲオルク、三男のハインリヒのことですが、書かれている通り幼いころに亡くなっています。最初の妹が生まれたのはその約6年後ですから、それまで厳格な父親のもとカフカは孤独だったのようです。



 Ich winselte einmal in der Nacht immerfort um Wasser, gewiss nicht aus Durst, sondern wahrscheinlich, teils um zu ärgern, teils um mich zu unterhalten. Nachdem einige starke Drohungen nicht geholfen hatten, nahmst du mich aus dem Bett, trugst du mich auf die Pawlatsche und ließest mich dort allein vor der geschlossenen Tür ein Weilchen im Hemd stehen. --- Ich war damals nachher wohl schon folgsam, aber ich hatte einen inneren Schaden davon.
私は一度、夜中に水が飲みたいとしつこくせがんだことがありました。もちろん喉が渇いたからでなく、あなたを怒らせるため、またそれで自分を楽しませるためでもあったでしょう。何度恫喝しても効かないとわかったあなたは、私をベッドから外に連れ出し、そこでしばらくの間、鍵の閉まったドアの前にシャツ一枚でひとりで立たせました。---私はそれからなるほど従順になりましたが、私はこれによってある心の傷を負っていたのです。


 この水を欲しがって夜中に外に放り出されるという経験はどうやら幼いカフカに意外と大きな傷を与えたようです。水を欲しがるという子供心からしたまったく意味のない行為で、なぜ自分が夜中に外に連れ出され怖い思いをさせられることにつながったのか一度も理解できなかったとカフカは続けています。
 他にも理不尽な体験として、カフカは食事の席での父親の様子を挙げています。父は骨をかみ砕いてはいけないと言うくせに本人がそれをし、床に食べ物を落とすなという父の足元には食事中大抵何かが落ちている。ルールを決めた本人がそれに従わないという矛盾を、自分にとって権威のある父親という人物がしていることにカフカは子供ながらに失望したと手紙には記されています。
 また体格的にも貧弱であったカフカは、肉体的にも丈夫であった父親とは対照的な存在でした。つまり父親の丈夫な肉体はその絶対的存在の象徴にも見えたのでしょう。これは彼にとって恐怖であったと同時に貧弱な自分へのコンプレックスでもありました。


Es gab glücklicherweise davon allerdings auch Ausnahmen, meistens wenn du schweigend littest und Liebe und Güte mit ihrer Kraft alles Entgegenstehende überwanden und unmittelbar ergriffen.
幸運にもそのうち例外はありました。それは大抵あなたが黙って苦しんでおり、そこで愛と親切さがその力をもって前に立ちはだかるものに打ち勝ち、直接それをつかんだときです。


 なんだかわかりづらい訳になってしまいましたが、カフカが言いたかったのはそんな「大きくて強くて理不尽な父親」にもそれを超える優しさがあったという事です。長くなってしまうので省きましたが、例えばその父親が暑い夏の日食事の後疲れて店で居眠りをしているとき、母が重病で床についている中涙で震えながら本棚をつかんでいたとき、そしてカフカ自身が重病で寝込んでいた際こっそり部屋に来て戸口に立ったまま首を伸ばしてカフカを見、手であいさつしたとき、などをこの後に挙げています。つまり必ずしもカフカは父親批判に徹しているわけではなく、このような点も書き連ねてなぜこんなにも不仲であったかという理由を考察しているんですね。
 結局この手紙はカフカの母親の反対によって父親のもとには届かず、読まれることもありませんでした。しかしこれは今ではカフカの人生や心情の変化が克明に描かれた重要な自伝的資料となっています。上に引用させていただいた文章も全体からすれば本当にほんの一部分にすぎないので、興味のある方はぜひ読んでほしいです。
 これはカフカ自身が考察しているわけではありませんが、この絶対的な父親の存在は彼の作品にも少なからず影響していると言われています。カフカの作品を読まれる方がいらっしゃったら、ぜひそちらも気にしつつ読んでみると面白いかもしれません。

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